昭和四十八年八月二十四日 朝の御理解


御理解第十三節
「神は向こう倍力の徳を授ける」


 神は向こう倍力の徳を授ける、神様に向かう事なんです、というても、神様を沢山拝んだとか、沢山お参りしたとか、という事ではない、20年も、30年も、お日参りをさせて頂いておる、それで、お徳を受けておるかというと、お徳らしいお徳も感じられない人が沢山あります。
 だから参ったとか、拝んだとか、御用をさせて貰うたからという事ではない、まあ、云うなら、100円のお供えをしたから、神様が200円のお返しをして下さる、そういう意味じゃない、どこまでも倍力の徳を授けて下さるというのですが、その徳を授けて下さるという事は、どういう向かい方をしたら、お徳を受けれるかという事、向かい方が焦点です。
 朝参りを何10年続けたというだけじゃいかん、一生懸命お供えをしたとか、お参りをしたとかという事ではない。
 お徳というものは、超能力だと思うですね、徳とは、人間が表しうる力、そういうものではない、成る程神様じゃなあと、ですから、私共では、実は判らない、判らないけれども、神様がそう仰せられてじゃから、という生き方、神様が云うて下さる事がいち、いち私共、合点が行くと云う様な、合点が行ったら誰でもその事を、云うなら素直にハイと云いますけれども、合点が行かなければ、自分の気が向かなければ、又、自分の合点が行ったから、神様へ向こうて居るという向かい方では、超能力という力は出らない。
 久留米の初代が仰有った、神様の、人間の一握りはこれだけなんだ、人間の一握りは、けれども神様の一握りはどれだけあるか判らん、超能力、そこで、信心は理屈じゃないという事になるのです。
 何故、どうしてと、それが判らなければついて行かない、という事では、只おかげの世界には、住む事が出来ましょうけれども、お徳の世界に住む事は出来ない、神様が向こう倍力の徳を授けると仰有る信心とは、私共の人智人力を勿論越えたものですから、私共に判ろう筈がない。
 そこでです、判りません、判りませんけれども、親先生がああ云うてじゃから、神様がああ仰せだから、と云う底の抜けた素直さというものが信心には求められるのである、底抜けに、だからおかげは底抜けに下さるのである。
 人間の知恵、力で判断したり、判ったり、出来たりした事は大した事はありませんよ、所謂、神力無限、無限の神力に触れさせて貰う、そこでなら、どう云う事かというと、神様が水なら、私共、水になるという事なんです、神様が油なら、私共も油になるという事です。 それを、御神慮を御神慮としてとか、神の心を心としてという風に表現いたします、神の心を心としての生き方というものが身について来る、それは神の心というものは、あまりにも偉大、あまりにも大きい、だから私共では判らない、判らないけれども神様がそう仰せだから、やはりそれにハイと云うてついて行くだけの事。 神様が云うならば大海の水でおありならば、私共はそれこそ、砂浜の砂の下をもぐる、水の影すらも無いかもしれない、けれども質が同じである、それが谷川に流れ込んだ時は、谷川の水であり、大川に流れ込んだら大川の水であり、大海に入ったらもう、大海の水である。
 そこに、神様と同じものは、そこに表す事が出来るのじゃないか、そこで、教祖は生神とこう仰せられる、だから、結局、向こう倍力の徳を授けて下さるという事は、私共生神金光大神を目指すという事になる、生神金光大神を目指しての信心、所謂、おかげを目指しての信心ではなくて、生神金光大神を目指しての信心…………
 教祖様は、身凌ぎの出来る信心を、と仰せられる、身凌ぎの出来る信心という事は、どう云う事かというと、独立独歩、独立が出来るという事、自分で歩いて行けるという事、自分で自分の心を治めるという、自治の心が生まれて来るという事、自分自らを治めるという事。
 例えば腹が立つような問題、悲しい問題、その問題その心に、苦しめられるのではなくて、その事が信心で浄化される、有り難いという心が受けられるという事、それが、独立独歩の信心と云われる、自分で自分の心を治める事が出来る。
 自分で自分の心が治まる、自分で自分の心がどうにもならない、さぁ、病気をした、と云えば、さあ医者じゃ薬じゃともう、医者や薬の方へ向かう、向こうちゃならんのじゃない、おかげを頂く為には、それは又大事だけれども、お徳を頂く為には、その生き方ではおかげにはならない、病気そのものの実相とでも云いましょうか、どうして、この様に苦しい病気をせねばならないかと、云う点の所を追及した、成る程自分がこういう苦しい目に遭わなきゃぁならない筈だと云うものが判って来る。
 さあお金が足りないと云えば、すぐどこかに借りに行く、貸して下さるのにいらんという事じゃないですよ、医者に見せちゃならん、薬飲んじゃならん、人に頼んじゃならんという事ではないけれどもです、それでは、所謂独立の信心とは云えないです、一人立ちが出来るという事ではないです。
 例えば、病気をしましても、難儀な問題があっても、誰に頼むとか、医者に縋がるとか、薬を飲むという様な事ではまだ、身凌ぎという事は云えない、判るところが判らせて頂いたら、こんな、難病と云われておった病気も、治らせて頂いたら、人に頼るのじゃない、神様一心に縋がらせて頂いて、こういう難儀な問題も解決した、解決の道を云わば判らして貰う、そういう生き方が、徳を受けて行く道なんです。
 教祖様は様々なお試しがあった、何故そう云う事をなさらなければならんのか、神様、訳は判らん、今日は何処其処に、金を拾わすからお弁当持って出かけよとこう云われた、本当に金が落ちているかと思うて一生懸命、下ばかり見ておいでられたと思うけれども、金は落ちてなかった。
 もう昼になってから、ここで弁当使えと仰有った、使え終わると、又、これから帰れと、神様は嘘を仰有った、お金は落ちておりませんでした、というところではない、御神殿に向こうた、神様は、今日は大変な拾い物をさして頂きました、命という大事なものを拾わして頂いたと、神様は落ちておった金は拾うて来たか、とお尋ねになる事に対して、拾うて参りましたのは、お金ではなかったけれども、命を拾いました。
 神様あなたがあんな事を仰有るから参りましたら、もうそれこそびた一文落ちておりませんでした、と仰有っていない、もう、神様も、ほとほと関心された、もう、おまえばかりは試し様がない、其処に、私は、超能力という事を使いましたが、其処に神様の御信仁、御信用というものが受けられるという事。
 神様はそう云う事を仰有りながら、何回も何回もお試しがあっている、それをものの見事に有り難く受けておいでられとる、だから今でも判らんのだ、何故か、今日親戚の誰それが死んだから、お悔やみに行けと云われる、親戚連れのうておいでられると、当の主人が出て来ておられる、それこそ穴でもあれば、入りたい様なお心持ちであられる、それでも、神様は帰りしなには、戻しの風は10層倍、戻しの風は10層倍と云うて帰れと仰有った。
 訳は判らんけれども、私共が推察して頂くのに、とても、戻しの風はと云う事は、神に向かう倍力と仰有るが、倍力どころじゃない、10層倍もの力を、その様な、教祖はそういう時に受けておられたんであろうと思う。
 私が、沢山サイダーを頂く、日に半ダースくらいは、アッという間に飲んでしまう、今年、もう、何年になりましょうか、神様から、サイダーは止めよとこう仰有る、だから、ジカジカする様なものがよかなら、ビールを飲め、ビールも5.6本くらいまでなら、良かろうとこう仰有る。
 私は、今にしてその意味が判らんです、何故サイダーからビールに変わったのか、あぁ糖尿病じゃから、砂糖が入っとるけんいかんとじゃろうかと思いよったら、ジュースのごとあるとは、余計に砂糖が入っとる、只、サイダーだけを飲むなと仰有ったから、何年にもなるけれども、何故サイダーを飲むなと云われたのか、私には判らん、判らんけれども、それっきり、私はサイダーというものを飲んだ事は無い、不可思議なという事ですよね、お徳の世界と云うのは。
 だから不可解であるという事、例えば、明日ここで、マル少の会を開きますよね、今度は信徒会が、後援会で色々な催し物がある、それは、性分で歌を歌いきらん人もあれば、そげな事フルフル好かん人もある。
 昨日、桜井先生たち一家でお参りされて、今度はもう私の方には、家族歌合戦に出なきゃならん、主人も、歌、歌うた事がないのに、どういう歌が歌うかと思うてから、けどやっぱり、そう云うご指名を頂いておるから、まあ一つ何か歌わにゃんじゃろうかと云うお届けがありました。
 やっぱり佐田さんもそうでした、私も佐田さんの歌というものまだ聞いた事がない、それも、歌合戦じゃけん、皆が歌わんならん、まあそう云う仕組みになっておるんじゃないでしょうか、けれども、そのなんとか歌わにゃならん、とても私共、歌てん何てんそげな事は、と云うのじゃない、親先生があぁ云うてじゃから、あぁ仰せですから、訳は判らんけれども、私だん歌、歌うだんじゃなか、けれども、歌えと仰有るから、泣く泣くでも歌うところに、私は、おかげが受けられるんだと思う。
 おかげと云うのは、お徳が受けられる、そういう向かい方です、そういう向かい方に倍力の徳が受けられると、只、合点の行く事だけしか、私は、他は、合点のいかん事は、ご免被りますと云う行き方には、お徳の方も、ご免被りますである。
 だから何十年信心してもお徳は受けられん事になります、只、神に向かうという事は、いろんな修行もしました、成る程おかげは受けた時には、けれども倍力の徳と仰せられる、倍力の徳を受けておるとは、思われません、私の事でも、まあだ合点のいかない事が沢山あります、修行中の事を思うて見ると、何故神様はああ云う事を仰有っただろうか、何故神様はああ云う事をさせなさったんだろうという事があります。
 又、何故ですかと聞いた事も無い、只、神様がああ云うて下さるからである、それと云うのが今のサイダーの事、私はもう、冷たく冷した上に冷して、のどがジカジカせねば、飲んだごとない、けど神様はサイダーは飲むな、だけどビールは良い、けれども5本も6本も飲んだ事はありません、せいぜい頂いて1本、それも自分から頂いた事も無い。
 神様は、飲みもきらんものに何故5本か6本なら良かろうと、何故仰有ったのだろうか、それを究明したり、判る必要は無いのです、信心は、だから、お徳を受けて………お徳が受けたいと云うならばです、私が今申しました様な、理屈は合点がいかぬ、判らんのだけれども、けれどもどういうなかにも、ハイと云えれる素直さの心、もし、私がここに沢山の家蔵財産を持っておるとするならば、只、私が神様に、馬鹿ほどにハイと云うて来た、それはハイの中から生まれたというて間違いないです。
 自分がおかげを頂かんならん事だけをハイと云うのではない、訳は判らんのだけれども、ハイと云う、信心で云う素直さと云うのは、そういう………様に先程申しました様に、身凌ぎの出来る様な信心、愈々の時に人に頼ったり、病気したら、薬に頼ったり、おかげは頂きましょう、けれどもそれによって倍力の徳を授けて下さるという事は、徳は、私は受け止められないと思う、それを神様一心に、お縋がりさせて頂くという事、自分の心、自らの心を自分で治められる心。
 普通なら、血の涙の出る様な、腹の立つ事であってもです、それをむしろお礼を申し上げる様な心、相手の事が祈れれる様な心、これは、自分で自分の心が治められる、そういう生き方の上にお徳が受けられる、ならその問題が、難儀が大きければ大きいだけ、その大きな難儀が信心によって処理された時、自分の心が治められた時、有り難いとお礼が申し上げられた時、難あって喜べと仰有って喜べた時、難はみかげと仰有って、それが本当に喜べた時、そういう心が自治の心。
 自分で自分の心を治めた事になる、誰に頼ったりするんじゃない、神様にお縋がりをして、心がスッキリして行くと云うのである、そういう生き方を、積み重ねて行く時に、神様は倍力の徳を授けて下さる、其処で、例えば徳を頂いたものが、なら私が先ずささやかな徳を頂いたとするか、そんなら私が御神前で、私が修行したけんこげな徳を受けたとも思わん、もう本当に信心も出来ませんのに、この様なおかげを頂いてと云うしか云い様がない、神様が倍力も十層倍力のおかげを下さってあるからなんです。
 私がこげな信心したから、こげなおかげを頂いた、そういう心は微塵も起こって来ない、信心も出来んのにおかげを受けてという事である、そういう心に愈々お徳は慕って行くばっかり。
 昨日の、月次祭のお説教は、若先生が、23日だけは仕えます、若先生がこの頃は承る事になっています、お話をここで聞かせて頂いとる中に、リズムに乗っている自分という事を云ってます、天地が奏でて下さるところの、リズムというものがある、それに自分が乗っておる、この調子を落さなかったら、この調子に乗って行けば、おかげが受けられる、お徳が受けられるぞと、感じたと云う話をしてましたですね。
 昨日、椛目の、篠原さんから、兎に角この干天続きで雨がございませんので、お湿りのおかげを頂く様にと云うのが、お届けがあった、その事をずーっと願い続けた、寝ませて頂く時も、床の中で、ずーっとその事を心中祈念させて頂いておったら、外でお湿りの音がする、とても、とても、私くらいのものが願うたから、天地が自由になったとは思われないけれども、けれども神様が、そういうリズムに乗せて下さった、私も、同じ事を実感した。
 昨日、久富さんが、先生ホーレン草を植えなければなりませんのでと云うお届けがあった、ところが土地はもう、ガツガツである、、私も、丁度、文男先生が来て、文男先生から、足揉んでもらいよる時であった、これは、お湿りがありよるごたんねと、ほう、やっぱり神様は聞いて下さったねと云うけれども、私が願うたから、聞いて下さったとは思われん、けれどもね、神様がこの様にして、こちらえ神様が、調子を持って来て下さる感じがする。
 だから、それに委ね、それに乗って、それは、委ねるという時には、委ねられる様な時もあるけれども、お委せ出来ない様な事もあるけれども、人間として、けれども委ねるという、その心が、今日は倍力の徳を受ける信心だと聞いて頂いた。
 神様の働きに、身を委ねるという事、委せるという事、自分の都合のよか事だけは委せられるけれども、都合の悪か事は、いいえ私は、と云う事ではもう其処で、お徳は其処まで来とっても、そのお徳に触れる事は出来ない。
 同時に私は、もう一つ申しました、神様が水なら、私共水になるという信心、それを神の心を心としてと、其処で神という事はなかなか判らんから、親先生ならば、こう云う時どうなさるだろうかと、云う頂き方なのです、其処に、親先生と同じ心になる、だから、親先生と同じものが頂けるのである。
 そうでしょうが、皆さんが親先生委せになった時には、親先生の云われるおかげちゃ、こう云うおかげじゃろうかと思うおかげを受けるでしょうが、それは、あの時だけ、私と同じものになったからです、それをその時だけではない、いつもがです、親先生委せ、神様委せという事は、親先生委せという事、合点が行かなければ委せられない、と云う、私は、自治というか、そう云う事ではおかげは受けても、お徳の世界に住む事は出来ぬ。
 しかも、お徳の世界と云うのは、限りがない事、いわゆる、無限蔵のおかげの世界ですから、それを私共は限り無く身につけて行こう、そこんところに一生が修行じゃと仰せられるところが、只、一生懸命にお参りしたと云うだけでは、おかげは受けられない、一生懸命御用しただけではおかげにならん。
 只、私共が過去において知っている、あれほど熱心にお参りした、それはもう、教会の事というたらもう、惜しい物は無い様にして、お供えしござったばってん、跡形も無いという人がいくらもあるのです。
 お徳を受けられた信者の中には、特に多いです、只、親先生のお徳でおかげを頂いてからなんです、ですから、お徳を受けると、そういう例えば、おかげを頂かしてもらう、判らせてもらう為に一生懸命にお参りも出来る、それを信心の稽古と云うのです。
 そういうおかげを頂いて、どうかせねば居られないという御用であった、始めてその御用が本当の御用になるのです、おかげを受けなければならんから、おかげを受けなければならんから御用をする、それでは、おかげは受けてもお徳にはならん、そんな事を聞いて頂いたですね。           どうぞ。